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広田修の書評とエッセイ

加藤思何理『花あるいは骨』

 

花あるいは骨

花あるいは骨

 

 詩的であることと具体的であることはしばしば衝突してきた。具体的に書けば書くほどテクストは小説に近づいていく。抽象性や無意味性を持ち込むことで詩は詩としての自律性を獲得してきた経緯がある。具体的な描写やストーリーがあったのでは小説から詩を差異化できない。そのため、詩は詩であるために具体的になることを嫌ってきたように思われる。

 だが、加藤のこの作品は極めて具体的な描写を伴いながら立派に詩としての自律性を獲得している。それは彼なりの特異な世界の作り方によるのだが、散文詩の可能性としての世界というコードの侵犯をフル活用している。つまり、日常世界のコードを破ることにより詩的世界を作り出すという手法である。

 だが、はたして加藤の作品が本当に具体的かと言われれば躊躇する面もある。加藤の作品はショートショートないしは寓話の体をなしているが、その意味するところが抽象的なのである。無意味な寓話、抽象的な寓話が果たして具体的といえるかという謎は残す。