albatros blog

広田修の書評とエッセイ

町屋良平『1R1分34秒』

 

第160回芥川賞受賞 1R1分34秒

第160回芥川賞受賞 1R1分34秒

 

  年若いプロボクサーの奮闘記。ボクシングというと体を動かす要素が大きいため、ここまで文字にする要素があったんだ、と驚く。だが、ボクシングといえども人間関係の中で制度にのっとって行われるわけであり、そうすると人との交わりであるとかより良いボクシングの追求とかに伴って様々な言葉が繰り出てくる。それだけではなく、ボクシングとはそれほど関係がない人とのやり取りや、ボクサーの内面から自然にあふれ出てくるものなど、予想以上に言葉数は多かった。

 身体を動かす外面だけのスポーツと思いきや、そこに大量の言葉を持ち込んでくるあたり、町屋良平の面目躍如というところだろう。これを一個の小説に仕立て上げる技術がすごい。実際、ボクサーたちの内面はこのように複雑で様々な思いに満ちているのかもしれない。非常に楽しめた。

ヘルタ・ミュラー『狙われたキツネ』

 

狙われたキツネ 新装版

狙われたキツネ 新装版

 

  本作品はチャウシェスク独裁政権下のルーマニアでの生活を描いたものである。独裁政権がいかに市民を抑圧したか、そして特権階級ばかりがいかに優遇されたか、そういうことが描かれている。

 独裁制は何よりも生活の連続性を破壊する統治体制だと思う。それは人と人との信頼を破壊し、平和で平穏な生活を破壊し、何よりも生活と社会を分離する。それを象徴的に示すのが独裁者の顔である。独裁者の顔と登場人物たちは非常に隔たっていて、その距離こそが社会中にいきわたっている亀裂そのものだ。また、度重なる家宅侵入によりちぎられていくアディーナのキツネは、そのような不連続性を如実に示している。

 このようなバラバラにされた不穏な世界において、愛でもって人々はつながろうとするが、それももはや正常な形をとりえない。軍隊で心に傷を負った恋人や、秘密警察の愛人、そのあたりにも偏在する不連続性が見て取れる。

 独裁政権を見事に描いた作品だと思う。

夏が来た

 今年も夏がやってきた。私は夏が苦手である。というのも夏は体力を消耗する季節であり、昔はよく夏風邪を引いたし、最近は夏バテをするようになった。夏は暑さに疲労する季節であり、私がいつも心掛けている疲労のマネジメントの真価が問われるときである。
 そのような披露する夏であるが、自然界は大変美しく燃え上がると思う。緑が生い茂り、果物が実り、光はまぶしい。自然界がその情熱をたぎらせるのがこの夏という季節だ。それと見合うだけの情熱を私も抱きたいものである。
 また、夏はとても儚い。夏には花火大会が多数開催されるが、まさに花火のような季節である。激しく燃え上がったと思ったらあっという間に散っていき、すぐさま秋に移行してしまう。
 私の生活としては、実家の桃の収穫の手伝いをしたり、お盆に墓参りに行ったり、本格的に軌道に乗ってきた仕事の方をバリバリ進めたり、様々な予定がある。また、私は夏生まれなので私の誕生日もやってくる。
 美しく燃え上がっては儚く散っていき、とにかく疲労しやすい季節がやってきたわけであるが、最近停滞気味の創作の方をぜひとも進めていきたい。これは私のこの夏の目標である。夏は創作に適したインスピレーションの季節でもあるだろう。

中村武羅夫『現代文士廿八人』

 

現代文士廿八人 (講談社文芸文庫)

現代文士廿八人 (講談社文芸文庫)

 

  明治時代、名だたる文学者の家を訪問して話を聞き、その文学者から受けた第一印象でもってその文学者の人格批評をした本である。当時『新潮』誌で大好評だったらしく、確かに読んでいて面白い。何が面白いかというと、どこか作品の真実が暴かれるような気がするからである。小説作品は背後に作者の存在を控えていて、その作者を深く知ることがその作品の「真実」に近づくことだと思われる節がある。小説作品だけを知っていてもそれを書いている人の人柄が分からないことはあまりにも多い。そこを明らかにしてくれるだけで読者にとっては垂涎物の批評となるのだ。しかもその批評は舌鋒鋭く身もふたもなく、外見から内面に至るまで微に入り細を穿つ批評なのだ。もちろん中村の誤解は多分にあると思うが、ここまで実際に作者と会った人間が詳しく人格批評をするとそこに何らかの真実が表れていると思わざるを得ない。そういう意味でとても興味深かった。

新しい仕事3か月

 人事異動で違う部署に来て3か月が経った。今度の部署は幾分特殊な部署であり、慣れるまで時間がかかっている。今度の部署はデータ整理、データ処理に相当の時間を費やす部署であり、今までこのような仕事を経験していなかった分、ペースをつかむのに手間取った。最近はデータの扱いにもだいぶ慣れてきて、データ処理速度も随分上がったのではないかと思う。
 また、今度の部署は成果主義の風潮が強く、いかに数字を上げるかというところが問われている。私も初めは不慣れだったものだから、数字を上げられずに上司にはっぱをかけられたりもした。だが、この3か月は助走期間だったと思う。これからどんどん数字を伸ばして前任者と同水準に持っていきたい。
 あと、今度の部署は、少ない予算・少ない人員に大量の仕事が割り当てられているため、割と仕事面で苦労が多い。私は自分の仕事について、詳しい上司からのサポートを十分に得られているから幸いである。業務内容も専門的であることから、上司からのサポートがなかったらとてもやってこれなかっただろう。
 不慣れで煽られたりもした3か月だったが、ようやく仕事は軌道に乗りつつある。この調子でこの仕事のプロフェッショナルになっていきたい。

町屋良平『しき』

 

しき

しき

 

  少年時代において、人間は確固たるカテゴリーを持たない。少年時代、人々は皮膚感覚が混乱していて、出来事を整理する理論が備わっていない。内部から湧き上がってくる情熱も、外部で起こる出来事への反応も、すべてが混乱していて確たる着地点を持たないのだ。すべてが結論を出し損ね、結論の出ないまま混乱した情熱ばかりが空回りする。それが少年時代だと思う。家族の問題や友人の問題、異性の問題など、すべてに決着がつかず、ただ猛然とわいてくる情熱に翻弄される。

 町屋はそのような少年時代の皮膚感覚を実に丁寧になぞっている。といっても言葉数は少ない。少ない言葉数で過不足なく少年時代の混乱を描いているのだ。この過不足のなさ、そしてこの皮膚感覚の現代性は注目に値する。今生きている高校生の感覚を町屋は的確にとらえていて、その目に狂いは見えない。とても良い小説だった。

結婚して半年

 入籍し同棲を始めてから半年がたつ。私たちは交際期間がそれほど長くなかったため、同棲してからお互いのことをさらによく知るといった感じだった。初めのころは大人しく行儀良かった妻も、慣れてくるにつれて少しずつ自然体で過ごすようになった。
 生まれも育ちも違い、価値観も違う同士、一つ屋根の下で暮らすと常々新しいことの発見だった。大量のコミュニケーションはその都度刺激的で、自分ひとりで生きていたのでは見えなかったことが見えてくるようになった。持っている情報も違えば世界の見方も違う、そんな二人が深くコミュニケーションすれば、当然お互いの視野は広まり視線は深くなる。
 十年勤めた職場を辞め、重い仕事から解放されて新天地へやってきた妻の解放感はよくわかる。「現在が楽しければそれでいい」とのたまう妻は、それでも女性的に現実的で打算的であった。私は男の一人暮らしということもあり、心身ともに不健康な日々を過ごしていたため、結婚は心身の健康につながった。それだけでなく、人生は間違いなく新たなステージに入った。
 一人で暮らす生活から他者と共に暮らす生活へ。二人の折り合わせはまだまだ続いていくが、上手に話し合いながらお互いに落としどころを見つけ、お互いに不満の少ない妥結点を探ることを際限なく続けていかなければならない。結婚とは終わりのない交渉の始まりなのであり、それは結婚から半年たった今でも続いているし、これからも続いていくだろう。