著者は質的社会学または生活史の学者として著名でもある。本書にも生活史的な人間へのアプローチは見て取れる。その一つとして、一人の人物の長い語りの中にその人物の人生を包括して立ち現せる手法があると思う。この小説でも、主人公とその恋人はそれぞれに己の人生を語りながらそれぞれの人生を包括して立ち現せる。その包括された全人生同士がぶつかり合うのがこの小説である。
だがもちろんそれだけではない。この小説には巧みな仕掛けがいくつもあり、それがストーリーテラーとしての岸の面目躍如たるところである。中でも題名にあるリリアンの取り扱いが実にうまい。恋人がかかわりを持つリリアンと、それをめぐる主人公のエピソード。これが恋人の偏愛の対象となる。しかしなぜそれが偏愛の対象となるかはわからない。この小説は包括された人生が絡まりあう一方、その絡まりあい方は非常に謎に満ちていて、それが一層人生のあいまいさを際立たせている。傑出した作品だと思う。