albatros blog

広田修の書評とエッセイ

矢部太郎『大家さんと僕 これから』

 

大家さんと僕 これから

大家さんと僕 これから

 

  芸人の漫画らしく、ボケと突っ込みというお笑いのロジックが堅持されている。僕が暮らす下宿の大家さんは80歳を超えていて、現代人の矢部と比べて距離感が近かったり、様々な感覚が異なっている。ちょっとしたことで伊勢丹の高級な贈り物をくれたり、すぐに戦争の記憶と結び付けたり、死に対して敏感だったり。そういうジェネレーションギャップを矢部は優しく笑いに変える。大家さんの現代風でない振る舞いがボケであり、矢部はそこにやさしく突っ込むのである。決して大家さんを馬鹿にするのではなく、齟齬を楽しむという具合の優しい笑いである。

 いたるところに矢部の優しいまなざしが透けて見える。絵のタッチからそうであるが、矢部がどれだけ世界や他者に対して柔らかなまなざしを向けているかがよくわかる。矢部にとって、大家さんは違和の対象ではなく優しく見守る対象であった。大家さんとのやり取りには豊饒な経験があった。そんなことをすごく感じさせる。

暑い

 毎日暑い日々が続く。エアコンをかなり使っているので、8月の電気代は結構かかるだろう。少しでも外出して帰ってくると部屋の中は暑くなっている。エアコンはつけざるを得ない。普通に仕事をしていてもいつもよりも疲れる暑さだ。エナジードリンクに頼ったり、いろいろとメンテナンスが大変だ。
 こうも暑いと、夜のどが渇いてアイスが食べたくなったりする。妻と一緒にコンビニに出かけてハーゲンダッツなど買ってきて食べる。私はアイスがそれほど好きでないが、あまりにも暑いときには食べる。そんな日がしばしばあった。
 この暑い夏に私の誕生日はやってくる。今年は遠刈田温泉まで旅行に行くつもりである。夏には夏の楽しみがある。このように沸き立つような気候であるからこそ、海岸に行ったり緑を見てきたりなどの楽しみがある。あと最近は休日の朝妻と公園を散歩している。夏の朝の講演は快適である。
 とにかく暑いが、暑いなりにいろいろ楽しみはある。

プリーモ・レーヴィ『休戦』

 

休戦 (岩波文庫)

休戦 (岩波文庫)

 

  著者レーヴィが、アウシュヴィッツ収容所から生き延びて、故郷のイタリアまで生還する一連のドキュメント。舞台はナチスが撤退したばかりのヨーロッパであり、戦争という暴力装置がいまだにその魔の手を解除していない状況下にある。戦争で傷ついた人々、収容所や軍隊、焦土の上をレーヴィは帰還するのだ。

 その道行は決して容易なものではなく、レーヴィは度重なる病苦にさいなまれ、先行きも不安なまま、それでもそこに生きる人々を冷徹な目で観察する。ここに見える人間模様は一種の地獄絵図であり、この世ならざるもののように思える。レーヴィもまたアウシュヴィッツのトラウマを背負ったまま、傷がいえることもなく恐怖や不安にさいなまれながらの旅行きである。

 最終的にイタリアに到着しても、レーヴィにとってこれはあくまでも夢に過ぎず、現実として認識できるのはアウシュヴィッツの朝の掛け声のみであった。戦争というものが個人や社会に及ぼす甚大な負のエネルギーを生々しく描く渾身のドキュメンタリーだった。

リチャード・バック『イリュージョン』

 

イリュージョン (集英社文庫)

イリュージョン (集英社文庫)

 

  本小説のテーマは人間の自由である。ドンは救世主でありながら救世主であることをやめた、自らの自由のために。その元救世主と主人公は濃密な時間を過ごすのである。人間が自由であるためには世界はイリュージョンでなければらない。つまり、人間はその自由によって世界を作りかえることができるのでなければならない。世界がイリュージョンだということは世界が可塑的であるということだ。それは人間が自由な意思によって作りかえることのできるものでなければならない。

 だが現実というものは強固で変革に時間がかかる。いくら個人が自由を訴えたところでイリュージョンほど可塑的に変わるものではない。それを踏まえた上であえて現実をイリュージョンとしてとらえるところにリチャード・バックの勇気を認めたい。この小説には社会的なものがほとんど出てこない。社会というものはむしろ変革が難しいものだからだ。だがそういうものも勇気を出して変えていけ、人間の自由を最大限に稼働して、そんなメッセージを受け取る。

軌道に乗る

 仕事が軌道に乗ってきた。もちろんまだまだ学ぶべきことは山ほどあるが、とりあえず資料を適切な量収集し、適切な量処理するというサイクルをこなせるだけ学習は進んだようである。ここからさらに仕事を精緻化していく必要があるが、とりあえず並みの水準には達したのではないか。
 思えばこの部署に来てからこの部署に慣れるまで手間取った。だが慣れてしまえばそれなりに心地よい職場かもしれない。とにかく目標をうまく設定してそれを達成していくことの繰り返しである。ちなみに上半期の目標は無事達成できる見込みである。
 それに加えて、まだこの部署に来てから体調を崩していないというのが素晴らしい。体調管理がうまくいっていると見え、常に効率の高い状態で仕事ができているといえる。休暇を上手に取得しリフレッシュを図っているからであろう。
 また新たな仕事に習熟していくということはとても喜びに満ちている。最近は窓口対応や電話対応も一人前にできるようになってきた。とにかく順調であるが、ここにくるまで試行錯誤の日々だったことも付け加えておこう。

 

高山羽根子『居た場所』

 

居た場所

居た場所

 

  本小説を読んでいると、我々がいかに不安を忘却して生きているかわかる。本来私たちは、自分が何者であるかとか、自分がどこに住んでいたかとか、自分の存在を支える物事について確信を持っていないはずである。なぜなら、自分の存在の根拠というものはそれほど確実なものではないからである。だからこそ、私たちは自分の存在の根拠の不確かさを忘却しようとする。あたかもそれが確かであるかのように思い込んでいる。

 この小説では、主人公の妻は自分がかつていた場所の存否が不確実になること、また自分の民族的出自が不確実になること、による存在の不確かさにさらされている。そこで、かつていた場所へ戻り地図を作ったり、遺跡から発掘されたかつての入植民族を確かめたりする。だが、それははたして彼女の不安を和らげることになったのだろうか。

 私たちは、自分が何者であるかについて、また自分がどんな人生を送ってきたかについて、確証を持っている気持ちでいる。ところが、それは本当に確実なのか。実は自分が何者であるか、どんな人生を歩んできたか、そこには大きな不確実性が潜んでいるかもしれない。そのことについて考えさせられる小説だった。

夫婦は大変

 これまで割と結婚の良い面ばかり書いてきたように思うが、もちろん結婚には苦労する面も多々ある。
 まず、お互いの生活ルールが違うため、そのすり合わせに気を遣う。整理整頓など割と細かいところにおいてお互いの感覚が違うため、ルールを統一しないと互いのストレスとなる。例えば男は何かをしっぱなしのことが多い。例えばカギを開けっぱなし、ドアを開けっぱなし。その点女性はこまめに鍵を閉めたりカーテンを閉めたりし、男がそうしないことをストレスに感じる。だから男の側からは妥協をして、こまめに物事を片付ける習慣をつけることになる。
 また、女性はホルモンの関係から機嫌を崩すことが割と多い。特に生理前や生理中は要注意である。ちょっとしたことにイライラして不機嫌になり、夫に当たってくることもしばしばある。そういうところで、相手を刺激しないようにし、刺激してしまったら沈静化を辛抱強く待つ必要がある。
 それに、夫婦の間では感情が共有されるため、一方の感情が沈んでいるとそれが他方にまで感染する。妻が悩んでいたりするとそれが夫にも感染し、夫の方にまでストレスが及ぶし、逆もまた真であろう。もちろん楽しいことも共有するわけであるが、辛いことや悲しいことも共有する苦労はある。
 あとはお金の問題がある。収入の多い夫婦であればそれほど困らないのかもしれないが、とにかく将来を見越して普段から節約をし、子供ができたときや家を建てるときなどに備えないといけない。男一人でいればお金は余るかもしれないが、家庭を構えるとなるとお金はとても貴重であり、管理が難しい。
 夫婦というものはメンテナンスの必要なものである。ただ惰性で続くものではなく、お互いに正のフィードバックを返し続けることで維持していくものである。仲の良い夫婦はお互いに努力をしているのだ。努力こそが夫婦にとって一番大切かもしれない。