albatros blog

広田修の書評とエッセイ

レイモンド・カーヴァー『大聖堂』

 ここには、群衆にまみれ、生活にまみれ、受動的に敗北的に生きるありふれた中間層の日常がある。なるがままになる、そういうあきらめを感じさせ、ある意味での無常感のようなものに満ちている。登場人物は特に才能や教養があるわけでもなく、個人としての自律性もなく、強固な思想信条があるわけでもない。ただ周囲に流され続けてきてここにたどり着いてしまったというありふれた群衆の姿がそこには見えるだけである。

 このような群衆や生活にまみれた個人というものはアメリカだけではなく日本にもごまんと存在していて、むしろそういう人たちの方がマジョリティである。賢慮に欠け、不毛な争いを行い、敗北していく、それは日本でもよく見かける群衆の姿である。だが、そこにこそ本作のリアリティが宿っているのであり、群衆をそのまま群衆として、その受動性と敗北を淡々と描いていく、いささかのペーストを交えて、というのがカーヴァーの作風のようだ。