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広田修の書評とエッセイ

古井由吉『野川』

 

野川 (講談社文庫)

野川 (講談社文庫)

 

  老いに達した著者の身辺雑記的・エッセイ的小説。基本的に大きな筋らしきものは見当たらない。ただ、病気で入院した後に自らの生活に起こったことを淡々と描いていく。友人の死であるとか、戦争の回想であるとか、筆は縦横無尽に時空を飛んでいく。特徴的なのはやはり文体であり、飛躍と深みのある独特の筆致が心地よい。この筆致により描写を多くすることにより、この本はエッセイではなく純文学になっている。

 ここには確かに小宇宙がある。筆者を中心とする複雑で機微に満ちた小宇宙。これだけの描写を重ねて筆者は一つの世界を作りたかったのだと思う。それはなんとはない日々の雑事でしかないのだけれど、それを筆の力でもって世界にまで格上げしていくということ。読むに堪えうるもの、楽しめるものとして芸術的に格上げすること。これは文学者の実力であり、もちろん古井氏ほどになればこんな芸当は容易なのだろう。とても楽しめた。