albatros blog

広田修の書評とエッセイ

高見順『草のいのちを』

 

  高見順はちょうど近代文学現代文学の中間のような作品を書いている。戦争の問題であるとか左翼運動の問題であるとか、そういう時代性を反映しながらも、文体的には近代文学的な簡勁さを持っている。その混迷した時代状況の中で喜怒哀楽する人々の様相を、変に複雑化することなく明朗に描いて見せる。

 高見順は、「我は草なり」という詩があらわすように植物的な作家だったのだと思う。そこにあるのは植物の簡潔さとしなやかさ、平明さ、みずみずしさであり、動物的な面倒くささがあまり感じられない。物語の筋にしても植物が健やかに育っていくように自然に展開し、人工的なくさみがない。この植物的であることと近代性を同一視することはできないが、海外文学の影響で日本文学が次第に動物的になっていったことは否定できないように思える。高見順は現代に生きながら植物的な特徴を多分に残していたのだった。