albatros blog

広田修の書評とエッセイ

夏バテ

 昔はよく夏風邪をひいたものだが、夏風邪をひかなくなってからは夏バテをするようになった。夏バテの一番わかりやすい症状は、夜寝るときに疲れがつらくてなかなか寝付けないことである。これがやってくると夏バテだと判断する。この辛い症状は病院に行って点滴を打ってくると直るので、今回も病院に行ってきた。
 夏バテのときは全身がだるく頭がボーっとする。午前中は何とかエナジードリンクなどでカバーして仕事をし、午後から病院へ。診察室へ通されて、下痢などの症状を訴えると、点滴を処方してくれる。
 この点滴が始まった時の快感といったらない。衰え切った脳や体が隅々まで満たされていく感じ。特に脳はすごく乾燥したような感じになっているので、そこに潤いがやってくると辛さが徐々に消えていって気持ちがいい。そうして今回も2時間点滴を受けてきた。点滴を受ければもう大丈夫。夏の終わりに毎年一回点滴を受けるようになった。

CT検査

 7月に人間ドックに行った。結果として、肝臓の値やコレステロールの値が改善していたのはいいのだが、エコー検査で、左腎臓に何かあるかもしれないから精密検査を受けるように言われたのだ。後日届いた検査結果書には「腫瘤の疑い」とあった。「腫瘤」とは癌ではないか。これは怖い。私は同じようにエコーで引っかかった人にいろいろ話を聞いてみた。エコーで引っかかったけど何もなかった人、エコーで引っかかったけど良性だった人。様々だ。だが確か4年前ほど、同僚が同じく検査に引っ掛かり悪性の腫瘍で入院したことがあった。私は腎臓の病気をいろいろと調べ、あれじゃないかこれじゃないかと憶測を重ねた。
 それで8月末になってようやくCT検査を受けた。結果は「異状なし」。結局何もなかったわけである。私は大喜びした。この1か月半ほど私を支配していた心配事がきれいに消えた。
 だが、今回の経験で思ったのは、「私も老いたな」ということだ。いつ癌になってもおかしくない歳になっている。そういえば白髪も増え、やや中年太り気味になり、昔と比べて疲れやすくなっている。少しずつの老いを感じていたところ、今回の「腫瘤の疑い」である。死というものはこういう日常に少しずつ滲み込んでくる。死は老いという形をとって、人を少しずつ侵食する。私はもう結構な程度死に侵食されてしまった。

絲山秋子『薄情』

 

薄情 (河出文庫)

薄情 (河出文庫)

 

  主人公は群馬の神社を継ぐために東京の大学を出て地元に戻ってきた30代の若者だ。主人公はまだ精神的なよりどころを見いだせていないまま、アルバイトをしたり神社の仕事をしたり女性と付き合ったりしている。主人公の寄る辺なさは、まだ未婚であることや職業の不安定さにも起因するが、やはり地方と大都市のはざまで揺れ動いているということもあると思う。

 現代、東京一極集中の時代は終わりつつあり、地方で暮らす若者が増えている。だが、その移行はまだ完全ではなく、東京の方が良い職や良い出会いにありつけたりして、地元で暮らす魅力との間で葛藤を抱く若者は多いと思う。主人公のよりどころのなさは、一つにはこの移行期とも呼べる大都市から地方への生活圏の移行が葛藤をはらんだものであることが原因となっている。

 現代の地方暮らしの若者の葛藤を描いているという意味で大変面白く読んだ。

エルフリーデ・イェリネク『死と乙女 プリンセスたちのドラマ』

 

死と乙女 プリンセスたちのドラマ

死と乙女 プリンセスたちのドラマ

 

  なんともとらえようのないカオティックで多面的な作品である。戯曲の形式をとりながら詩や哲学がふんだんに取り込まれている。この分野横断的で意欲的な作品は、死と乙女という難しいテーマに挑む際に必然的にこのような形式をとったのかもしれない。これだけの複雑な構文と複雑な比喩でしか死と乙女のカオスには迫れないのかもしれない。

 意味をとることは容易でないし、意味をとることは初めからあきらめた方がよいかもしれない。それでも全体的なテーマや、なによりも創作の活力、エネルギーが伝わってくる作品である。創作の際の犀利な頭脳のひらめきがそのまま伝わってくる、その高揚がそのまま読者の高揚となるような、そのような作品である。

 逸脱に逸脱を繰り返し、本質を何重にも迂回しながら、そうでしか語れない本質というものはあるのかもしれない。簡潔には表現しきれないものを言葉数多く遠回りに詳しく語っていくということ。一つの語りのパターンかもしれない。

秋の始まり

 短かった夏も終わり、朝晩涼しくなってきた。ようやくものみな熟す季節になってきた。この恵まれた天候の季節に、仕事もプライベートも充実させたいと思う。読書のペースはずっと維持してきたが、アウトプットが足りないように思う。詩を書くのはもちろん、エッセイやコラム、評論なども積極的に書いていきたい。そのための孤独な時間も上手に確保したい。
 詩集の構想はもう二冊分出来上がっているが、何分家庭を持つ身、以前のようには簡単に出版できない。そのあたりの話もしていきたい。薄給の身ゆえ、これから詩人としての活動などをどのように展開していくかは難しい。
 仕事の方はだいぶ慣れてきた。この調子でどんどんスキルアップしていきたい。一つの業務を極めることはそれだけ軸足を増やすことになる。今後も見据えて日々邁進していきたい。
 とにかくアウトプットの多い秋にしたい。

ボフミル・フラバル『厳重に監視された列車』

 

厳重に監視された列車 (フラバル・コレクション)

厳重に監視された列車 (フラバル・コレクション)

 

  ナチス支配下チェコスロヴァキア鉄道員をしている若者を主人公として据えた作品。著者自身の人生でおそらくもっとも密度の高い時期を小説化したものであり、それゆえ本小説も多様なモチーフにより密度高く彩られていて、読みごたえがある。自殺未遂事件、鉄道員としての仕事、自らの生い立ち、戦争、性的な出来事、軽妙な文体でありながら多くのことが詰め込まれている。

 この小説では、現実は小説より奇なり、と似た事態が生じていると思われる。現実は小説よりも密度が高い。生きられた現実の密度の高さをそのまま小説に持ち込むと、通常よりも密度の高い小説が出来上がる。血肉化した現実の記憶を小説化した場合の作品の密度の高さは、現実の密度の高さにより説明されるだろう。現実は小説よりも多彩なモチーフで構成された多面体なのだ。

お盆

 今年もお盆がやってきた。妻の実家にあいさつに行ったり、妻を連れて実家の墓参りに行ったり、花火大会を見たり、なかなか充実していた。うちはもう一つの世帯なんだな、と実感した。実家からは独立したひとつの世帯である。
 さて、仕事の方は上半期がもうすぐ終わるが、無事目標は達成した。初めはいろいろ不安があったが、いざやってみると自分の能力は人並みにあったようである。だが、これからはまだ手を付けていない分野の業務もやらなければならず、まったく手は抜けない。
 気になっていた夏バテだが、今のところそれほど深刻化していない。ただ、どうしても体力が落ちがちなので、夏季休暇などを上手に取りながらやり過ごしていきたい。また、人間ドックで精密検査が必要といわれたので、そちらも心配である。健康に配慮しなければならない歳になった。
 丁寧に体調管理しながら、うまく夏を乗り越えたい。